当たり前のことは、実はとてもありがたい(有難い)ことなのだ。

【2016年7月13日(水)】

 このブログで何度も同じことを書いて恐縮なんですが、わが子と一緒に過ごせる時間は、気がついてみると驚くほど短いのである。

 かつて、ボクも一人息子と一つ屋根の下で起居をともにしたのだが、いつの間にか彼は家を出て一人暮らしを始め、やがてお嫁さんをもらって家庭を築き、子どもがひとり生まれ、ふたり生まれして、そして今日に至るのである。

 もっと深く彼と関わって生きていればよかったと、今にして思うのだ。
 ボクは長い間、〝自分のお世話で忙しく〟、息子のことはほとんど奥さん任せにしていた時期が長かったのである。
 「後悔先に立たず」とは、まさにこのことなのだ。

 いまボクが、なぜ、毎月1回は必ず息子の家を訪れてふたりのお孫ちゃんに接しているのかといえば、息子が幼い頃、彼とふれあっていた時間の、いまではすっかり薄くなってしまったその記憶を、もう一度彼女らの身の上で追体験して取り戻そうとあがいているからにほかならい。

 家族と当たり前のように過ごしている時間は、その時間が失われてしまえば、実にありがたい(有難い)時間だったのである。
 逆にいうと、当たり前のことは、あとで気がついてはじめて、ありがたい(有難い)ことだったということがわかり、しかし、もうその時には後悔しても始まらないという厳粛な事実に気付かざるを得ないのだ。

 少し前に、ボクは、「ありがたい(有難い)」の反対語がすぐに回答できなかったことについて書いたのだが、その答えは、「当たり前」が正解だったのである。
 「ありがたい」は、文字どおり「有難い」のであり、そえゆえその反対語は、「ふつうにあり得る」すなわち「当たり前」ということになるわけだ。

 いま、ボクは、奥さんと「当たり前」のように同じ屋根の下で31年暮らしているのだが、この「当たり前」の環境が失われた時、ボクは彼女にしてもらった様々なことを「ありがたい(有難い)」と思うのだろうな。
 いま、しみじみとそのことに気付くのだ。
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by misaochan3x6 | 2016-07-13 17:33 | 自分遺産 | Comments(0)


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