【2010年10月2日(土)】
広島出張のため、前日に現地入りして仕事を追えた後、宿泊は、薬研堀にあるカプセル・サウナに1泊。
翌朝、広島記念公園を目指して歩き出す。
ブロガーとなって5年。そして、1981年からの社会人スタートを皮切りに、その後、ジョブ・ホッピング(転職)を繰り返しながら、現在の職場にたどり着いて5年になる。
この職場では、年に数回、全国に出張仕事があり、この5年間で広島を訪れたのは3回目だと思うが、生まれて初めて原爆と正面から向き合う気になったわけなのである。
きっかけは、このスレッドの
8/22のログを参照のこと。
広島が、海(広島湾)に広がりながら発展した街であることに今回初めて気がついた。
それにしても、見るべきこと、知るべきことは、ネットや図書館で本を読むことでは到底不十分で、やっぱり自分の目と耳と、そして何より足を使って知らなければ、何手に入らないし、何も知ることが出来ないということだったんよ。
そして、決定的だったことは、事実を知らないということは何と悲しいことか、というよりも、今まで事実を知る努力をしなかったということは、もはやほとんど<罪>だということなのさ。
歴史が<解釈された物語>であることには疑いの余地はない。
そしてまた、世の中には客観的な真実などあるはずはなく、森達也がいうように、今ボクにほしいのは主観的な真実だけなのだ。
そういう意味で、今回、ボクがヒロシマで得ることの出来た主観的な真実は大いなる価値を持った体験だったといえるのさ。
「広島平和記念資料館」に入館。
それにしても、10年超連続で年間3万人の自死者を吐き出すこの国で、根絶したと思っていた肺炎がいまだに根絶やし出来ずにいて、しかも経済格差は広がるばかりで、これまた根絶したかと思っていた生活苦による餓死者を根絶出来ないこのニッポンの何を<平和>として、しかも「記念」するのか。
この場合、意図するところの正しい日本語は、「平和
祈念資料館」であり、「平和
祈念公園」とすべきなのではないか。
それにしても、ヒロシマもニッポンも、1945年から65年を経て、何かを見失ったか、何かに大きく麻痺させられて、感覚が鈍ったのではないか。
「平和」「平和」と唱えるだけの「平和念仏」主義者(by司馬遼太郎)と成り果ててしまい、先鋭化させておくべき感覚が鈍磨してしまったのではないか。
戦争(反射的に平和をも措定している)に対するニッポンの感覚は、戦後、むしろ後退化することを選んでしまったような気がする。
新憲法の<9条>が、そもそも、ニッポン人全体の思考停止の原因そのものではないのか。
欧羅巴の法概念では、いや、世界標準の法概念では、憲法は実情に応じて改正されるべきものであるというのが常識であると、何かの本で読んだ気がする。
であれば、このニッポンで、一体、誰が誰に思考停止の洗脳化をほどこしたのか?
きっかけは亜米利加由来ではあるものの、結局は、ニッポン人のニッポン人によるニッポン人のための洗脳化計画が成就した戦後65年ではなかったのか。
「反日」は、何も中国や韓国の専売特許ではないのよん。
気がつけば、実は、「反日」教育は、戦後、ニッポン人がニッポン人に対して実行して来た施策だったんよね。ぎゃふん!!
「平和念仏」主義者のニッポン人のひとりとして、似非平和ブランドのアイコンと化した「原爆ドーム」を間近で見たのは初めてだった。
しかし、この目と足を使って検証したこの戦争遺産の
物証としての力は、圧倒的だったのだ。
この建物からわずかの所に爆心地があり、テニアン島から原爆を積んで飛来したB29から落とされた爆弾は、爆心地上空約600メートルで爆発し、強烈な熱戦と爆風が、多くの非戦闘員が生を営んでいた真夏の8.6のヒロシマを襲ったのである。
しかも、警告なしに。
爆発が真上であったがゆえに、もともとチェコ人の設計による産業振興館として大正時代に建てられたこの建物は、爆風が真上から吹き降ろされ、全壊を免れたたというのである。
それにしても、その後名づけられた「原爆ドーム」とは、何と禍々しいネーミングであることよ。
呪われた、といった感がある。
下のパンフレットの一番右の写真の赤い球が、爆心地上空約600メートルで爆発した原爆の位置である。
赤い球というのには意味があり、核分裂のエネルギーによる爆発は、さながら小太陽そのものであるという例示なのである。
また、この原爆が落とされた理由も、このパンフレットに記されていた。(下方の赤い囲み参照)
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ヒロシマに落とされた原爆とともに、4個の観測機がパラシュートでこの地に投下された。
1945年上期、東京をはじめとするニッポンの主要都市は、激しい空爆をこうむったが、原爆投下地であるヒロシマは、この難からは逃れた。
なぜなら、原爆の効果測定のために、ターゲット地は手付かずの状態であることが望まれたからである。
すなわち、ヒロシマは爆撃禁止地とされた。
また、この地には連合国の捕虜施設がないと思われたことも、投下ターゲットとして選ばれた理由であると、資料館の展示で知ることが出来たのだった。
繰り返していうが、多くの非戦闘員が生を営んでいた真夏の8.6のヒロシマには、警告なしに、世界初の原爆投下が行われたのである。
日露戦争移行、世界に伍して台頭して来た「黄色い猿」を殲滅するための、これは明らかな白人による〝人体実験〟であったことがわかる。
しかも、1発ではなく、なぜ、ナガサキに2発目が投下されなければならなかったのか?
ヒロシマ型とは違うタイプの原爆の効果測定にナガサキは利用されたというのである。
65年前、宗教を根源とした原理主義的な民族間紛争である今の戦争原理とは違う原理が、ヒロシマとナガサキを通底していたことは、この目と足を使って動いてみて初めてわかったことである。
すなわち、人種偏見、人種差別をはるかに凌ぐ人種憎悪とでもいった根源的な意識なのだ。この憎悪意識は、経済圏の防衛といった大儀を隠れ蓑にして全目露出したのだった。
さて、戦争(反射的に平和をも措定している)に対する先鋭化した感覚を養わなければならないニッポン国民を思考停止にさせたヒロシマとナガサキの原爆、新憲法の<9条>による自縛的な桎梏、東京裁判の再考査等、ここから考え始めなければならないことが、ボクにはハッキリとして来たわけである。
そう考えると、人類として初めて体験する原爆被害とは、戦争とその反射である平和を維持することについて、鋭く考えることをやめてしまったニッポン人に対する
痛烈な反語ではなかったか。
そうでなければ、「平和
祈念公園」とすべきところを、「平和記念公園」とする愚行をおかすはずはなかったのではないか。
戦争と、そして同時に、その反射である平和を維持することについて、
頭が痺れるくらい考え抜くこと。我々、ジャップに出来ることといえば、それ以外にないのではないか。
靖国神社に詣でて、そのありようを自分の目と足で確かめたこともないのに、靖国参拝に異を唱えるフールズと同じことをしていては、誰が見ても納得するところまで意識を先鋭化させた果ての<主観的な真実>の高みには到達出来ないぜ。
そうだろ、ブラザー。